はなぺちゃくんのいるところ
はなぺちゃくんは、ブッチという名前でした。
もう、おかあちゃんのところにいってしまったので、今日は名前で呼ばせてください。
ぶっちゃんがいなくなって7ヶ月がたった。
死んでしまったら、もう二度と触れないのだということを、私ははじめて知った。
そんな当たり前のこと、わかっていたはずなのに、知らなかった。
あのふわふわの毛に触りたい。
あったかい体をおなかにのせて眠りたい。
何度も何度もそう思った。
それは経験したことのない寂しさだった。
もう二度と会えない。
身近な人を亡くしたことのない私は、そのことの意味をはじめて知った。
おとうちゃんは知っていたんだ、と思った。
寝ている顔面にブシュッと鼻汁をかけてくるところ
すぐ汚れがたまるぺったりと湿ったおなか
すぐのびる黒くて硬い爪
首のしわしわと、荒れてゴワゴワになった皮膚
散歩の時にふよふよ揺れるきくらげみたいな耳
かわいいぶっちゃんの、へんなところばかり思い出す。
そしてその度に、あのふわふわの毛に触りたいと、
今でも、何度もそう思う。
私がぶっちと過ごしたのは、数えてみたら5年間。
彼の一生の半分にも満たないのか。そして私の人生の、6分の1。
妊婦だったり乳飲み子がいたりで家にいることが多かったから、
子どもたちよりもおとうちゃんよりも、ぶっちと一緒にいる時間が長かった。
それでもぶっちは、いつでもおとうちゃんのことが一番好きで、必ず後ろをついてまわった。
私はいつもそれが羨ましかった。
ぶっちゃんがいなくなってからおとうちゃんが思い出すのは
私の知らない幼い頃や若い頃のことばかりで、
私たちはぶっちのいない寂しさをうまく共有できなかった。
おとうちゃんにとって、ぶっちはいつまでもおかあちゃんとの犬で、
でも私が同じ立場だったらやっぱりそう思うような気もするし、
それはもうどうしようもないことだった。
ぶっちゃんの一生は別れと引っ越しが多くて、新しい家族との出会いも多くて、
いつも、どの家でも、たくさん愛されて育ったけれど、
こわがりで寂しがりの彼にとってはたいへんな一生だったと思う。
家に人がたくさん来ると怯えて来客を噛んだし、
臆病なあまり家族に対しても牙を向けてうなることがあった。
そのくせ部屋から人が去っていく時には、
それが全くの他人であっても驚く程大きくて哀しい声で吠えた。
いつも誰かとくっついていたいぶっちゃんは、
バウンサーの赤ん坊の上によじのぼって眠ったり
子どもたちを押しのけて私の膝の上に来ることもあった。
脚が弱ってベッドやソファに上がれなくなってからは、
私たちがそこにいると赤ちゃんみたいな声でキューンキューンと訴えた。
ぶっちの湿ったおなかを抱えてベッドに上げるのが日課になった。
少し前にぶっちの両親が亡くなって、目も耳も悪くなってきて、
あぁ、数年後にはぶっちはもういないのかもしれないと思うようになった矢先の、突然の死だった。
末っ子が台所の棚からひっぱりだして封をあけた、余ったビーフシチューのルー2かけ。
ぶっちゃんはそれを食べて死んでしまった。
ついさっきまで部屋をうろうろしていたのに、気がついた時にはもう動かなくなっていた。
いつもいるバウンサーで、いつもは丸まってるのに、
手足をだらんと伸ばして静かに眠るように亡くなっていた。
防げた事故だった。
私がルーを子どもの手の届かないところにしまっていれば、ぶっちは今もこの部屋にいたのに。
プラスチックのトレイはきれいに舐められていて、
腕に抱いたぶっちはまだあたたかくて、
きっと「こんな美味しいもんはじめて食べた!」と満足して寝床に戻って
そのまま心臓が止まってしまったのだろうと思わせるような顔をしていた。
ぶっちの口から前日の夕食の匂いがする茶色い液体が垂れるまで、
何が起こったのかわからなかった。
こんなことを言うのは不謹慎でひどいのかもしれないけれど、
死ぬ時は”ピンピンコロリ”がいいなぁとよく言っていた私は
悲しいのと後悔と、でもどこかで羨ましくて、なんともいえない複雑な気持ちになった。
十分年老いて、でもまだ動けるうちに、私もあんな風に死ねたらなぁ。
食いしん坊のぶっちらしいなと思った。
クレヨン、ろうそく、オムツなど、今までもさんざん危険物を体内に入れてきたぶっち。
まさか、ビーフシチューのルーを食べて死んじゃうなんて……
そんな最期だった。
今、家には2頭の子猫がいる。
先月、おとうちゃんの反対を押しきって私が保護団体からもらい受けた子猫たち。
子どもたちは代わる代わる抱っこしたり、えさをあげたりしてかわいがっている。
ぶっちとは全然ちがう、新しい生命。
表情もしぐさも触った感触も、ぶっちとは全然ちがうけれど、
寂しさが漂っていた家が明るくなった。1人で家にいる時間が辛くなくなった。
昨日ふと、この子たちはぶっちゃんのことを知らんねや、と気づいて、
ぶっちがもういないことをまた思い知った。
もしぶっちがいたら遊んでほしがる子猫たちを嫌がったかな、
意外と仲良くなってくっついて眠ったりしたかな、
ぶっちは猫のエサも食べようとするだろうなぁ、
と想像を巡らせて、あぁなんでぶっちがいないんだろうと、また胸がくっと痛くなる。
何が起こるかわからない。
誰かが病気になったり、一緒に暮らせなくなったり、するかもしれない。
私だっておとうちゃんだって、突然死んでしまうかもしれない。
そうなっても自分や家族が前を向いて生きていけるように、今を重ねていくしかない。
あんまり信じていないけど、もし死後の世界というのがあったら
そこでぶっちゃんに会えたり
もしかしておかあちゃんにはじめましてが言えたりするのかと思うと、
いつか死ぬのも怖くなくなるなぁ。
2017年6月28日(水) おかあさん
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